【昔話『うさぎとかめ』にみる】凡人でも天才に勝てる努力の法則とは?

コンサルタントの津森です。天才と凡人は何が違うのか?凡人と天才の間には決して越えられない隔たりがあるのか?誰もが知る昔話『うさぎとかめ』を題材に考えてみます。

天才も凡人も本質的に大きな差はない

天才と呼ばれる人々が豊かな才能を持っていることに異を唱えるつもりはありません。しかし、天才とは呼ばれない人、いわゆる凡人にだって才はあります。天才も凡人も本質的に大きな差はないと考えます。ただ、秀でている部分が違うだけなのではないでしょうか。

実際、社会的に確固たる地位を築いた人から、小さなコミュニティまでを含めて考えると、天才と呼ばれる人は数え切れないほどいます。決して特別な存在ではないのです。さらに言うなら天才と呼ばれている人のすべてが成功者なわけでもありません。逆に凡人と呼ばれながらも大きな成功を手にする人も数多くいます。

成功する天才と、しない天才とでは何が違うのか。また天才を差し置いて凡人が成功を収める理由はなんなのか。その答えは意外と単純なことかもしれません。

周囲の協力と理解が天才を天才足らしめる

天才であってもひとりの力で成し遂げられることには限度があります。周囲の協力は不可欠でしょう。

集団の中での天才のあり方にはいくつかのパターンがあります。ひとつは孤高の天才。周囲はその才覚を認めつつも完全に理解はしていません。

もうひとつは周囲を巻き込む天才です。周りの人の力を借りながら大きな成功を収めるタイプといえます。

どちらのタイプも周囲の目には天才と映るかもしれません。しかしその天才性には大きな差があります。孤高の天才は先天的な天才であり、周囲を巻き込む天才は後天的な天才です。

つまり、周囲を巻き込む天才は、初めから天才だったわけでないのです。徐々に天才と呼ばれるようになった元凡人です。もちろんすべての人がこのパターンに当てはまるとは言えませんが、概ね当てはまるケースが多いのではないでしょうか。

どちらにせよ、この2パターンの天才は腰掛けるイスが違うだけで社会的に重要な役割を担っていることに変わりありません。

組織においては周囲を巻き込む天才のほうが有用であると言うつもりもありません。どちらがより優れているかではなく、単に役割が異なるだけです。

その人を取り巻く環境によって、天才性が有利に働くことはあれば、不利に働く場合もあります。例えば孤高の天才がいかに革新的なアイデアを提言しようとも、周囲がそのアイデアを理解できなければ、机上の空論にすぎません。しかしたったひとりでも理解者がいたなら、革新的アイデアは、やがて社会を変える発明にまで発展するかもしれません。

また、周囲を巻き込む天才が出した特に目新しい点のない凡庸なアイデアも、いろいろな人の意見を取り入れていくうちに、かつてないものへと進化する場合もあります。もちろん、周囲の協力が得られなければ、凡庸なアイデアは凡庸なまま淘汰されてしまうでしょう。

要するに取り巻く環境次第で、天才性を発揮できることもあれば、その才覚を活用できないまま、ゆっくりしぼんでしまうこともあるのです。天才であることは大きなアドバンテージですが、絶対ではありません。凡人であっても乗り越えられる壁なのです。

いかなる天才といえども周囲の協力と理解なくしては、なにも成し遂げられません。今回の企画意図に則っていうなら、天才が天才であるためには凡人が必要不可欠ということ。それこそが天才の弱点なのかもしれません。

天才のうさぎが、凡人のかめに敗れた理由

さあ、ここでやっと『うさぎとかめ』の出番です。なかなかたどりつけずヒヤヒヤしましたが、ようやく本題に入れます。

『うさぎとかめ』の昔話は、みなさんよくご存知のことと思いますので、詳細は省きます。教訓としてとしてよく言われているのは、

  • 努力は才能に勝る
  • 一歩一歩着実に進めば必ずゴールにたどりつける
  • 驕れる者久しからず
  • 最初から無理だとあきらめず強い気持ちで挑む

といったところでしょうか。確かにこれらは子供にも理解しやすく、わかりやすい教訓です。ただ視点を変えると、この昔話が言わんとする別の意図も見えてきます。

なぜうさぎは途中で仮眠をとるなんて、無茶なことをしたのでしょうか?いつものように普通に歩いているだけで100%勝てた試合です。かめを侮るにもほどがありますよね。まるで、あえてかめに勝ちを譲ったようにも思えます。

また、かめがうさぎに勝負を挑むにあたって、勝算はあったのでしょうか?ただ怒りに任せて100%負けるとわかっている試合を、闇雲に挑んだんでしょうか?実際には勝ったわけですが、試合前にうさぎが寝るなんて想定していなかったはずです(もし想定していたとしたら、かなりの策士ですが)。少しばかり無謀すぎるのでは?

これらの疑問を踏まえた上で、あらためて『うさぎとかめ』の物語を考えていきます。

まず、「うさぎ=天才」、「かめ=凡人」という解釈が成り立ちます。天才であるうさぎが、凡人のかめを侮るのも無理からぬことかもしれません。それにしたって寝てしまうのはやりすぎですが・・・

最終的にかめが勝利した理由は、うさぎの過信、油断なのはご存知の通りですが、重要なのは、なぜ過信し、油断したかです。

この物語には、うさぎの天敵、あるいは競争相手となりえる存在が描かれていません。つまり、生まれつき最速であることを宿命付けられたうさぎは、努力する機会に恵まれなかったともいえます。

対するかめは、作中でも指摘されている通りのノロマです。なんとかこの汚名を返上したいと日々、努力を続けてきたことでしょう。うさぎに無謀な勝負を挑むくらいには。

ここで現実の天才と凡人に目を向けてみます。ポイントは、天才は努力する必要がないということ。なぜなら努力なんてしなくても、なんだって普通以上にできてしまうから。

もしもあなたが天才だったら、勉強しなくてもテストでいい点数がとれたなら、あえて努力なんてするでしょうか?私だったら怠けてしまいます、確実に。

対して凡人は努力する習慣が身についています。

うさぎとかめは山の頂上という遠い道のりを目指しますが、われわれはより過酷な人生という道のりを歩んでいかねばなりません。最初はわずかな差でしかなかった努力の有無が、時を重ねていくうちに、やがて才能を凌駕する大きな力となるでしょう。

子供にもわかるように単純な構図で描かれた昔話を、そのまま現実に当てはめるには無理があります。けれど、人間を含む生物は基本的に必要なことしかやりません。努力の必要がなかったなら、やらないのが自然です。わかりやすく言えば、そもそも天才は努力が苦手ということですね。

うさぎという天才の最大の不幸は、その才能ゆえに努力するチャンスを与えられていなかったことです。もしもうさぎにライバルがいて、努力するチャンスを得ていたとしたら、当然、かめに負けることなどなかったでしょう。

環境が天才と凡人を分かつ

「十で神童 十五で才子 二十過ぎればただの人」ということわざもありますが、かめに敗れたうさぎはただの人(うさぎ)になりました。天才と言うのはそれほど珍しい存在ではないと申し上げましたが、その才能が活かされないまま埋もれてしまうというケースも多くあるからです。天才が最後の瞬間まで変わらず天才でい続ける例は稀です。

ちなみに、天才でありながら、努力できる環境に恵まれ、精進を怠らない人もおります。そういう稀有な人が、オリンピックに出たり、教科書に載ったりするんじゃないでしょうか。

天才とは脆くはかない、それゆえ鈍くとも打たれ強い凡人にも付け入る隙が生まれます。また天才の脆くはかない部分を凡人が補うことで、より大きな成果につながることもあるでしょう。

天才だからと言って、なんだってひとりでできるわけではないのです。とりわけ複雑化する現代社会においては、天才性によって実行力が逆に削がれてしまうケースも往々にして起こりえます。そんな時に求められるのが、失敗を恐れないガムシャラな実行力、そう、かめのような。凡人の積み重ねた努力が天才を凌駕する瞬間です。

凡人は才能に欠けるからこそ、努力せざるを得ない環境を得ることができます。努力せざるを得ない環境に身を置くことで、天才に近づくこともできます。これもある種の才能であり、とても重要なことです。劣等感や嫉妬もあるかもしれませんが、過酷な環境を努力で乗り切った先にあるのは、天才と同じ境地です。

働く環境によって、凡人と天才の立場は簡単に逆転します。天才だけでは乗り越えられない障害も、凡人ならではのパワーで取り除くことができる場合もあります。

今一度申し上げますが、天才も凡人も本質的に大きな差はありません、秀でている部分が違うだけです。天才にあって凡人にないもの、凡人にあって天才にないもの、それぞれの長所、短所を理解しあうことが、ビジネスにおいては大切です。

うさぎとかめのように、ただ山のてっぺんを目指せばゴールというほど、現実は単純にはできていきません。山までの道を整備し、仲間を増やし、環境を整え、社会的にも貢献しながら、一歩一歩登っていく必要があります。

天才も凡人も、それぞれ役割、責務を持っています。凡人であることにも、天才であることにも劣等感を抱く必要はありません。それぞれの才能を認め合い、活かしていくことで企業は成長するのですから。

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